1.何故地球(惑星)物理なの?
2.函館ラ・サール
3.塾講師と教育実習
4.大学院入院(笑)
5.入院長期化(笑)
6.源流へ !2003年 3月19日 新規掲載!
//熊谷の私室へ
1.何故地球(惑星)物理なの?
始まりは小学校の国語の教科書にあります・・・。当時おそらく地球物理教室にいらした竹内均教授が書かれた「説明文」がありました。
内容はうろ覚えですが、いわゆるプレートテクトニクスのお話をウェゲナーの大陸移動説のあたりから簡単に書いてくださっていたような記憶があります。
えらく感動したので「刷り込まれちゃった」みたいですね。
その少し前に国立科学博物館の小畠さんが「フタバスズキリュウ」の発見に関して書かれた「少年恐竜館」という本も読んでいたことも、だいぶ影響があったかもしれません。
その後、松井孝典さんの「パノラマ太陽系(NHK特集)」を見てテーマソングの「Mr.ブルー」を覚えてしまったりとか、
その頃創刊された「Newton」を読み耽ったりとかしました。
その流れか、小学校の6年生で科学クラブに、中学校では科学部に所属して、
読売新聞社主催のコンクールに出品したり気象台の見学に行ったりしたものです。
教養の1年の時には、丸山茂徳さんの地学の講義を聴き、
平朝彦さんの「日本列島の誕生(岩波新書)」にしっかりはまり、
完全にイッちゃいました。
幸か不幸か地球物理学科/化学科/地学科を選択できる状況だったので、
さんざん迷った挙げ句、地球物理に来たわけです。
このとき、地学(天文)の教官だった長谷川助教授に相談にのって貰いました。
熊「地球物理だと数学が苦手だとついていけないのが心配なんですが?」
長「やりたいことがあってそれなりに努力をすればどうにかなると思うよ」
最終的に憧れをやりたいことに昇華できたのはこの長谷川先生のおかげかも知れません。
:どうにかなっているかって?それは私の経歴をご覧いただくしかないですね。
どうにかしたいものだとは思っていますが。
でもまぁ、今の仕事はどの学科所属の教官についても関わることのできた境界領域なんですけどね・・・。
むしろ、地学科だったらもっとモノが診れるように訓練されたかも知れませんがね。
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一応ミッションスクールという位置づけになりますが
(ラ・サール会というカトリック系の修道会が母体になっている)、
生徒が信者である必要はありませんでした。宗教の授業が週1時間あったぐらいです。
在学当時は1学年の標準募集数は300人、私の学年は比較的少ない方で、
271名(274かもしれない)の入学だったように記憶しています。
6クラス編成で私はB組でした。
かの有名なラ・サール学園高等学校:鹿児島市所在とは一応姉妹校です。
あちらが非常に高名であるため、いろいろと誤解される事も多いのですが、
私の周辺での定義は「受験校」でした。「進学校」ではないわけです。
すなわち、大学受験をするが、すぐに「進学できるわけではない」
というかなりひねくれた表現です。とはいえ、
最終的に大学に進学しない者はあまりいなかったのも事実ですけどね。
ま、現役合格率概ね45〜55%で、医学部志望者が特に苦しかったようです。
270名のうち3分の2の180名強が寮生、残りはほとんどが自宅生で
下宿生はあまりいませんでした(学年が進むに従って下宿生は若干増)。
このような構成のため、何だかんだいって寮生中心に物事が進むのが常で、
当時少し問題にされた事もありました。「『うちの学校は寮生中心だ、
自宅生は無視されている』この言葉が下宿生の立場をよく表している」
等という文章が生徒会機関誌の卒業生の一言に載った事もあるくらいです。
まぁ、私の人生、というより人格の捻りの効いた部分のほとんどはこの
「寮」で形成されたというのがおそらく正しいでしょう。
エピソード有りまくりなので追々書いていこうと思います。
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学部1年の当時、受験産業を敵視(^^;;;していた私はどうしても家庭教師とか通常の塾講師とかのアルバイトに
就くのがイヤで奨学金と仕送りの貧乏生活を送っておりました。このときどうも体重が一気に減ったらしい。毎日昼は月見うどんとかで。
そんななかでバイト探しをしていた私の目に留まったのが、「小学4、5年生の旅行の引率」。
当時、非常に有名だった進学塾の行事で福島県に泊まりがけで連れていく旅行:勉強合宿ではなかったですねの引率。
どうやら「いないよりはマシ」と思われたらしい私は最終夜、浴場にて先輩バイト=時間講師に誘われ、
10月から5年生対象の実験教室の方でも雇っていただけることになりました。
その後、勤務先を変えたこともありましたが、聴衆の前で話す恍惚感に囚われた私は7年以上も時間講師として受験産業で食い扶持を稼ぐこととなりましたが、
これはまた別のページにて。
さて、ともかくも保険のつもり程度に教職課程を受講していた私は、
あの寮に再び2週間以上泊まれるという希有の機会に、先輩と呼ばれる快感の中毒になっていたこともあり、
学部4年生の6月:1992年に母校に凱旋し:気分的にはて教育実習させていただきました。
ちょっと違った立場で再会した先生方、歓迎してくれた後輩達、再び寝食を共にしたかつてのルームメイト・・・。
それはもう、貴重な体験でした。ところが・・・。
我々の高校では学園祭が最大の行事でした:今でもそうでしょう。
大学祭の模倣という批判もありましたが、お遊びの要素をふんだんに盛り込んだまさにお祭。
一方、当時の生徒会指導の先生方は私どもの卒業後から見直しということで路線変更を模索していたようです。
指導部と在校生の間との意志の疎通が必ずしもうまくいっていなかったように思えた私は、
主任のM先生と大喧嘩してしまいました。
そんなわけで気まずくなったこともあり、何とか?修士課程に入学できた私は教員免許の申請もせず、
現在に至っております。#結局平成11年4月付けで中学校・高等学校専修免許は取得してます。
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ま、6年かけてまもなく退院の運びとなりますが、終わりそうになってこそ振り返ることも出来ようというものです。
さて、この入院のいきさつですが・・・。
そもそも我が所属(だった)地球物理学科というところは理学部の中でも「物理系三学科」として一括して扱われてきました。
そう言やぁ、専攻統合すると、ついに「物理」が抜けるようですが物理系三学科という呼び名も消滅?
ま、成立のいきさつからして物理の子供的な位置付けで:僕はそこに積極的な意義を見出せるはずであるという立場です。
真に「学問」の属性であるかは大いに疑念のあるところですが、実際問題として実際の研究が細かく面倒になってくると、学部の教育程度では
研究として「卒業論文」を書かせるレベルに達しなくなってしまいます。そのためか上記の物理系三学科には当時は(おそらく今でも)卒論がありませんでした。
大体理学部からして卒論がある学科の方が少ないのです:うちの大学内では。むしろ、修士課程1年まで掛かって基礎教育という状態に近いものがこと地物ではあります。
結果、学生側の意識としても学部卒段階での就職をそれほど意識せずに院試を受けるような所があって、僕らの学年−91年進学のため「91進」と称する、では
一人も学部卒で就職しませんでした。学士入学や転学部などが2、3人いただけで留年者以外皆進学したわけです。これは極端な学年ではあります。
ただし、私どもの年(93年度試験)から、ついに、専門科目の筆記試験が消滅し、2次試験は面接のみとなったため、異様に倍率が上がったことも事実。
その結果、1次試験で1名,2次試験で1名の不合格者が内部から出ました。1次試験で私はボーダーライン上だったので、2次試験の時には専攻教官ほぼ全員による
「品定め」を受けました。きつかったですよ。一人ずつ呼ばれて壇上に上げられ、教室を埋め尽くす教官:40人はいたから質問責めにされるってのは。
笑われちゃったときには「もう終わりだ・・・。こんなことになるなんて」と暗澹たる気分になりましたが、
蓋を開けて見れば通過していましたが。翌年以降はおちそうなグループがバレバレなので判らなくなるように工夫してるみたいです。
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さて、何故に長期化したかについて。院試や入院の時点ではまだ5年コースへの覚悟が決まっていたわけではありません。
実際に教育実習にも行っていましたので:これで後々助かることになりましたが。
で、4年も年末(平成4年でもあった)、師匠にご挨拶に伺った際「君は2年にするの?5年にするの?(すなわち修士卒で就職の希望か博士課程まで進むのか)」と訊かれました。
とはいえ覚悟はさっぱり定まっていませんでしたから、
「少し考えさせてください(常套句ですな)」と言ったわけです。まぁうちの師匠は優しい方ですから
「そうだね。まぁM2までに考えておいてね。テーマのことがあるから」と猶予を頂きました。
でまぁ進学しまして暫くゴタゴタといたします。理由はいくつか。
1:地球物理では学部の間は研究室に振り分けられないので環境が激変した。
2:塾講師の方が4年目で仕事の質が変わってきた。
3:当時殆ど流行が終わりかけていた自己啓発セミナーに首を突っ込んだ。などなど。
手馴らしにと始めた測定は割と面白いデータにもなり(最終的に学術雑誌に載りました)、
塾の方も時間講師としては長い方になって融通も利くようになり(長期休暇以外は土日の6年生担当だけにしてもらえた)、
M1も中頃にはペースを取れるようになってきました。おそらくその頃に長期戦の覚悟が定まったものと思います。
実際にはM2に上がる春に分析装置の更新があって(これがまたもたついた)、
一時はデータを出せずに(独創的なお話を作る能力は三流未満ですから:出来たとしても幻みたいなもので勝負賭けたくはないし)M3を覚悟した時期もありはしました。
が、親から経済的にも独立してやっていくめどが立ったのでM1の秋頃には博士課程の進学希望を固めました。
そんなわけでもう長いこと所得税納税者をやっております。
修論をはらはらさせてくれた装置には結局D4へのとどめを刺されましたけれど。
かくてこの一連のコンテンツの時点(1998年頭)へ接続と相成ります。
入院時は明らかにボーダーでしたが、師匠のお言葉を字面通りに受け取れば修士論文/博士論文(4年掛かったとは言え)ともに
どうにか問題にされない水準には達していたようですから(博論が面白くないと言う批判は確かにある)、
まぁ粘ってみたのも無駄ではなかったのでしょうね。
そんな私も退院後1年間のリハビリ期間(オーバードクターともいう…)でこうも早く就職できるのですから、
世の中何があるか判りません。
そういう意味では真に日本が豊かな社会になったならば相対的に需要が高まるべき博士号取得者を
より多く社会に供給しようという動きに出来るだけ多くの学生は乗って欲しいと思っています。
しかし、運が良くてもこの程度、供給が需要を追い越しつつある分野も増えてきた博士取得者には
就職難は相変わらずどころかますます激化中。
かつてのように学費が負担にならなかった頃は暫く研究生を続けても困りはしなかったでしょうが
(未だにこの感覚でいる事態の危険性に気付いていない教官もいて困ったものだ…)
今や国立大の研究生研究費でさえ生計を圧迫します。
その意味で覚悟を決める際は選択肢≒退路を広げて玉砕の無いよう手を打つ必要はあるでしょうねぇ。
それだけのコストを払うに値する行為だと信じてはいるのですがね。
私の場合は金銭面(塾講師や模試作成請負)/資格面(教員免許申請可能状態)/興味の範囲(乗船研究経験)
に1つずつは退路を確保するように狙ってはいたわけです。
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もう書くことはなかろう、と思って就職の時点で締めていたこのコーナー、修行中に触発されて気づいた
/思い出したことがあり、3年ぶりに書き足すこととします。
修行中、まぁ、完全なEmployeeではないので、
何となく、学生とも、客とも、職員ともつかない気分に陥ることは確かにあります。
しかし良いことは、当地は日本人がまだまだ少ない為か、日本人の客や新しいvisitorがあると、
食事に呼んで貰える機会が多いことですね。
先日そんな機会があり、こちらに来て30年、完全に米国籍をお持ちになり、
senior scientistとして成功を収めている大先輩(と言うもおこがましいですが)と同席させていただきました。
食事後、数多く咲いた話の花のなかで、昭和初期に渡米されていたその方のお父君が、
戦前・戦中に辛酸を嘗められた、そのお父君に代わり夢を果たされた、と伺いました。
で、不用意に頷いていたら、ホストの方に、「何で頷いているのだ?」と矛を向けられたので、
必死に、思い出話を関連づけて乗り切りました、私も似たようなところがある、と。
勿論、その方のお父君は渡米後いったんは成功を収められ、化学の教授職に就かれたそうですが、一方
私の父は、高卒後の職歴の全てを銀行の平行員として送りましたので、言うもおこがましいところはあります。
しかし、父親の果たせなかった夢という点では共通点があるように思えたのです。
私の父は青森市郊外の出身です。青森といえば今や三内丸山遺跡が有名ですが、ずっと以前から、
いわゆる縄文系の土偶、土器などの出土があったことも知られています。
父の通っていた(奇しくも昭和初期!)小学校の裏山には小規模ながら遺跡があり、発掘作業のお手伝いや、
小学校の陳列棚の展示物で親しんでいたようです。
父は当時としてはそれでも珍しく、旧制中学へ進学できましたが新制高校への編入の後、興味を抱いていた
考古学の道へとは思いもつかず、勿論、大学への進学も出来ず、上記行員への道を歩みました。
しかし、関心は低くはなく、その現れか、小学校入学を控えた私をはじめて区立の図書館へ連れていったときに、
私に、強くピラミッド発掘の読み物を薦めたのです:ツタンカーメンの呪い?秘宝?
とかいうタイトルだったと思います。
その後の経過は上記の通りですが、父は、私が大学院の進学先を地球物理にした、と話したときに、
ずいぶんと落胆した素振りを見せ、酔っていたこともあるでしょう、「おまえは考古学をやってくれると信じて…」
とそのとき一度だけ言ったものです。その時点では、研究室の配属先も決まっていませんでしたから、
さらに落胆させる受け答えをしたことは間違いないのですが、いざ蓋を開けてみれば、最初の仕事は
考古学にも(いやむしろ人類学か)無関係ではない放射年代測定、その後は、さらに大法螺をふいて
地球史を攻める(つもりの)仕事を進めています。まぁ、ことここに至れば、父も我慢してくれるのではないか、と。
父も歳をとりまして、「もうちょっと気楽な人生を送ってくれると良いのだが…」とも申しますが。
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