2003年 1月22日計画 2003年 7月 5日第1稿 2004年11月28日更新

霧に覆われた「幻想都市」函館

はじめに

1. 裏夜景へのご招待
2. 青柳町こそ哀し?いか
3. 烏賊刺し、塩辛、烏賊ソーメン!?
  //熊谷のわたくしごとのへや

はじめに

…ここに記された函館は、歴史によって風化しない、時間のもう一つ向こう側に位置する函館である。
霧に覆われた幻想都市函館は、つねに時間を超越して私たちの世界とパラレルに存在している。−(函館物語:辻仁成/集英社文庫)


辻氏は写真文庫「函館物語」の冒頭でこのように述べている。函館は、氏が多感な思春期を過ごした地であるとのことだが、思春期の記憶という微妙な平衡の中で篩い出された光景としてのバイアスを考慮してなお、函館という街には時間の流れの向こう側に存在するかのような幻想感が伴う。それは、私自身の思春期を美化するベクトルに因るものかも知れないし、一種、精神の一部が大人になり切れていない(子どもっぽさを意図的に維持している)職業的な悪弊かもしれない。高校を卒業して以来、大学院時代、職を得てからも数度にわたり函館を訪れてなお、その感は止むことがない。これは、函館に浸りながら、敢えて抜け出した罪悪感の裏返しかもしれないが、ともかく、私にとっての座標原点なのである。

1. 裏夜景へのご招待

 函館と言えば夜景、ガイドブックにも、そして数多くのポスターとして、函館山山頂から市街地を見下ろした光景は紹介されている。陸繋島である地形の故、山麓から一旦すぼまり、再び広がるという市街地の形状に加えて、イカ漁期には津軽海峡に浮かぶ多くの集魚灯(といっても相手はイカだが)の光点が加わり、華やかな明度で惹きつける巨大都市のそれとは異なった趣を楽しむことができる。もちろん、観光バスのコースに含まれているし、シーズンには路線バスも走り、山麓<=>山頂を結ぶロープウェーもあり、アクセスに悩むことはない。欠点は、霧である。それも、津軽海峡から寄せてくるいわゆる「霧」だけでなく、この観光スポットだけを覆い隠す地形性の雲がある(ちょっと古いが部活動として行った独自の観測資料も所蔵。期間:1984-1985)。昭和の末(1988年)の改装で悪天候時にもエッセンスに触れることのできる山頂ラウンジができたが、固定日程のツアーなどでは、はずれの日は不運を嘆くしかない。ましてや、街中では日も射していたとなれば尚更である。
 そこで、最近はweb cameraで中継もされている裏夜景。もともと、誰が言い出したものか、函館山に相対する山地・丘陵から市街地or津軽海峡に浮かぶ函館山を眺めるもの。テレホンカード全盛の時代、NTT純正のデザインが売り出されていたこともある。雲が函館山にのみ掛かっている場合にはこちらはOKのことも多い。定義からして函館山の方を眺めればそれで充分「裏夜景」なのだが、南北方向に引き延ばされた形状の山体と北東-南西方向に亀田半島と函館山を繋ぐ砂州の形状とから変化も大きい。幸いにして中学在学時は函館山麓の青柳町、高校在学時は東部地区の日吉町(の寮)に住んでいたから、両方に親しむ機会には恵まれた。いくつか記憶に残っているうち、比較的到達しやすかった場所としては、北高校から山手の小さな公園の脇を上がっていき、最終的には88年当時は処分場があった未舗装道路を抜けていった先と、高校からだと往復で10kmのロードワークコースになるゴルフ場への未舗装道路の途中がある。夕暮れ時にランニングをした帰りなどには疲労に応じた寂寥感とあいまった不思議な感覚を覚えたものだ。実は、一度も夜景としては眺めていないのだが、銭亀沢からの林道が旭岡団地へ抜ける直前の下り坂と、団地の高台からの函館山は絶景だった。とはいえ、速歩大会本番で通過の際はそれどころではなかったわけだが…。今でも視界の開けた場所を探せばさぞや夜景も趣があるに違いない。
 とはいえ、なかなかアプローチが難しいことは確かで、このたびようやく一部だけに再見。

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2. 青柳町こそ哀し?いか

函館の 青柳町こそ かなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花 −(石川啄木)

 とある銀行の平行員であった父の転勤で、引っ越した先が青柳町である。定年を控えた最後の転勤で離れるまでの都合4年ほど住んでいたことになる。もっとも、最後の半年ばかりは私自身は高校の寮に入っていたわけだが。転入した青柳小学校は路面電車の通りからわずかに上ったところにあり、銀行の官舎からは下りとなる。わずか4ヶ月ほど通っただけだが、踏み固めた雪に水をまくだけでスケートリンクができるとは、秋田から引っ越した私にとっては衝撃的であった(この話題、今回の渡米で重宝してます)。年が明けて1月、青函トンネルの先進導孔が貫通、特別報道番組を教室で視聴。授業にも滅多に使われなかったテレビの晴れ舞台。スケートの授業は中断。暫く、「発破ぁ!」がクラスメートの流行語となる。勝手にバイアスの掛かった記憶に基づくと、「ミニスキーでの通学は禁止」だったはず。
 進学した潮見中学校はロープウェー駅とほぼ同じ標高の高台にあった。桜並木に囲まれた木造(老朽)校舎であった(現在は建て替えられている)。旧電車通り−以前はいわゆる栄町廻り線が運行されていた(軌条そのものは残っているんだっけ?)−を松風町から函館山方面へ向かうと、晴天時はトタン屋根が輝き非常に目立つ校舎であった(ボロさも)。当然函館山山頂からもよくみえる。グランドで練習する野球部員の(個人は識別できないが)姿も見えた。昭和30年頃の博覧会会場を流用した校舎で、一風変わった登校口と向かって右手、ロの字型の校舎本体(教室部分のみ2階建て)、左手に職員室などの管理棟(平屋)と体育館、登校口からそのままグランドへ出ることができたなど特異な構造だったと記憶している。教室棟に囲まれて真ん中にプールがあり、水泳大会は教室から応援できた。オフシーズンに誰彼と無くゴミを投げ込むので(まさになげる訳だ)プール開きの前に水泳部員が一生懸命掃除していたっけ。そういえば在学中、一度もLL教室で授業を受けた記憶がない。委員会で入ったことはあったが。(二線一側階段下倉庫:特殊教室1年生教室棟の南側階段のはずだ、には入ったことがあります。)
 当時はいわゆる校内暴力が地方へと伝播した時期に当たり、そこはそれ、つまらない思いも(人によっては苦痛も)あった。仲間と羽目を外したこともあったし、今にして思えばそれなりに危ない目に遭ったこともある(2階の教室から落ちそうになるとかね)。正直時間を遡れなくて幸い、という面も無くはないのだが、あまり哀し、という感情は惹起されないのだなぁ。今にして思えば、次の高校時代を予感させるそれなりに恵まれた時期であったのだ。残念なことに、中学時代の同級生とは疎遠にしてしまった部分が多い。恩師にはなるべく不義理をしないように、と思っていたのだが、この道へ入る手ほどきをいただいたH先生は家内をおめにかける前に亡くなってしまわれた。ちなみにすでに卒業担任の当時の年齢を超えている。すいません、この次は家内と子供を連れて参りますので。

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3. 烏賊刺し、塩辛、烏賊ソーメン!?

 家内は南西諸島の出であるので、こんな話もなかなかピンとこないらしい。そこで、子供が産まれる前にともかく眺めてもらいに彼岸の頃に出かけた。折悪しく、台風18号の通過直後にあたり、そこここに塩害のため草木に枯れが目立ってはいた。

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熊谷のわたくしごとの部屋

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